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【優秀賞】九州大学におけるカルト対策について


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優秀賞

九州大学におけるカルト対策について

K・Mさん(九州大学)

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1.はじめに

現在、国立大学法人九州大学(以下、九州大学)がカルト団体に対する対策を行っている。主なものとして、入学式とオリエンテーションにおけるカルトに対する注意や大学内にあるポスターと電子掲示板による勧誘注意がある。

カルトという言葉の意味には「宗教的崇拝」(大辞泉)や「カリスマ的指導者を中心とする熱狂的集団」などさまざまな意味がある。また、団体を非難する言葉として使われることもある。そのため、明確な定義は難しいが宗教的な背景をもった集団ぐらいの意味に留めておく。しかし、カルトが宗教的な背景をもった集団であるとすると、九州大学のこのカルト対策は憲法の保障する「思 想・良心の自由」や「信教の自由」の侵害にならないだろうか。

本論ではまず、九州大学の行っているカルト対策の具体的な事例を挙げ、「思想・良心の自由」と「信教の自由」について紹介したあと、九州大学が宗教に関してとっている立場を規則と教育憲章から示す。そして最後に裁判所の違憲審査に照らし、九州大学のカルト対策の問題点を明らかにする。

 

 

2.九州大学のカルト対策

(a)オリエンテーション

九州大学では平成22年と23年に新入生に対するカルト対策のオリエンテーションが行われた。平成23年の例を挙げると、入学式後に、新入生に対して丸野俊一副学長からカルトの勧誘への注意喚起が行われた。さらに、翌日の学生生活オリエンテーションでは日本司法支援センターの佐藤力弁護士が「宗教団体の勧誘に注意するように」という主旨の講話を40分ほど行った。講話では、オウム真理教の例をあげながら、「宗教は本当に恐ろしい」と述べていた。また、教育学部の新入生オリエンテーションでは橋口教授(仮名)が統一教会の勧誘に注意するように促した。これは橋口教授の個人的な意見であり大学当局が行うカルト対策ではないがこのような発言を容認していることに対する責任は大学当局にもあるといえる。

 

(b)ポスター

学内の掲示板や壁や柱に「勧誘に注意」という見出しのポスターが掲示されている。また、食堂の電光掲示板でも同様のスライドを映し出し、学生に対する注意喚起が行われている。その内容は「言葉巧みに近づき勧誘を行っているカルト団体と思われる集団が伊都キャンパス及び周辺地域に現れています。現に被害にあった学生が大学に相談に来ています。大切な大学生生活をフイにしないために氏名電話番号メールアドレス等の個人情報を教えない。『おかしいな』『あやしいな』と感じたら、即、大学に相談してください」というものである。ビラのデザインは作成年ごとに異なり3種類ある。われわれが確認しただけで、伊都キャンパスのセンターゾーンに11枚、ウエストゾーンに2枚、箱崎キャンパス文系地区に4枚の計17枚のビラが貼られている。

 

 

3.思想・良心の自由

「思想・良心の自由」は、憲法19条に「思想及び良心の自由はこれを侵してはならない」と定めてある。「思想・良心の自由」は、内面的精神活動の自由のなかでも、最も根本的なものといえる。この思想・良心の自由を「侵してはならない」とは、第一に、国民がどんな国家観、世界観、人生観をもつかは、それが内心の自由に関する限り、絶対的に自由であり、国家権力は内心の思想に基づいて不利益を課し、特定の思想を抱くことを禁止することができないということである。また、国民がいかなる思想を抱いているかについて、国家権力が聞き出すことは許されず、沈黙の自由が保障される。つまり、国家権力は個人が内心の思想について、直接または間接に尋ねることも許されないのである。[1]宗教も思想のひとつだと考えると、「思想・良心の自由」の自由によって同じように保障されている。

 

 

4.信教の自由

(a)内容

憲法20条1項前段は「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と定めてあり、この信教の自由には、信仰の自由、宗教的行為の自由、宗教的結社の自由が含まれている。

信仰の自由は、宗教を信仰し、または信仰しないこと、信仰する宗教を選択し、または変更することについて、個人が任意に決定する自由である。宗教的行為の自由は信仰に関して、個人が単独または他の者と共同して、祭壇を設け礼拝や祈祷を行うなど、宗教上の祝典、儀式、行事その他布教活動等を任意に行う自由である。宗教的結社の自由とは、特定の宗教を宣伝し、または共同で宗教的行為を行うことを目的とする団体を結成する自由である。

この中で、信仰の自由は内面精神活動の自由であり、その自由の侵害は内面の侵害にとどまらず人格を侵害することになるため、絶対に侵してはならない。ほかの宗教的行為の自由と宗教的結社の自由は、外形的な行動に現れるため、他者の権利に介入する場合は制約もされる。しかし、その制約は内面の侵害に抵触しないきわめて厳格な制約でないといけない。

判例でも「宗教行為の自由が基本的人権として憲法上保障されたものであることは重要な意義を有し、その保障の限界を明らかに逸脱していない限り、国家はそれに対し最大限の考慮を払わなければならず、国家が自らの法益を保障するためその権利を行使するに当たっては、謙虚に自らを抑制し、寛容を以ってこれに接しなければならない。」[2]とあるように、国家権力の不当な侵害を受けないと判断されている。

また、宗教的行為の自由の限界を示した加持祈祷裁判[3]において神戸大学の小泉洋一教授が「宗教的行為に限界があるとしても、その制約は、行為の目的、方法、結果等の外形的事項にのみ着目して考えられるものである。その際、行為の基礎にある信仰、教義等の宗教的事項に基づいて判断されてはならない。さもなければ、国家が宗教の価値判断を行うことになり、それは明らかに内心の信仰の自由までも制限することになるからである」[4]ことを述べている。宗教的行為の自由の制約は、外形的な事項にのみ限定されるべきであり、そのような厳格な審査をしなければ、不当に内心の自由を侵害することになるだろう。

 

(b)二重の基準論

宗教活動の自由のような精神的自由の憲法判断には、二重の基準論という考え方がある。アメリカの判例で生まれ、日本国憲法でも採用され、判例や学説で支持されている。二重の基準論とは、憲法の保障する自由権を「精神的自由権」と「経済的自由権」に区別し、「精神的自由権」の「優越的地位」を認めて、精神的自由の権利が制約されるときは経済的自由の権利が制約されるときより厳しい審査を行うという理論である。精神的自由権は思想・良心の自由や表現の自由など人間の内面の自由を保障する権利であり[5]、経済的自由権は、職業選択の自由や居住・移転の自由、財産権など自由な経済活動を行うための権利である[6]

その根拠は、第一に民主主義の機能を正常に保つためだ。一度、政治活動の自由といった精神的自由が制約されると再び立法でその制約を変えることが難しくなる。裁判所が精神的自由を擁護することによって、民主主義の正常な運用を助けることになる。第二に、経済的自由の制約は、社会、経済政策の問題が関係することが多く、政策について審査する能力の乏しい裁判所の審査能力を超えてしまうからである。これに比べ、精神的自由の制約は裁判所の審査能力が問題になることは少ない。[7]宗教の制約は精神的自由権に属する制約であるため、経済的自由権に比べ厳しい審査が行われる。

 

(c)国際人権規約

日本が批准している国際人権規約(自由権規約)によると、思想・良心・宗教の自由の制限に関して18条3項で「宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課すことができる」と記している。この18条3項は厳密に解釈されるべきであり、本条項に定められている以外の制限を自由に持ち込むことは認められない。[8]ゆえに、宗教や信念を表現する場合は、公共の安全、公の秩序、健康、道徳や基本的権利と自由を侵害する場合のみ規約違反ということになり、それ以外では、宗教、信念を表現する自由は守られる。

 

 

5.九州大学規則と教育憲章

(a)九州大学規則

九州大学は、九州大学規則1条で「教育基本法の精神に則る」ことを明記している。

教育基本法15条2項で「国及び地方公共団体の設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教活動をしてはならない」とあるように、国立大学は宗教教育、宗教活動に対して中立であるべきだ。しかし、同時に教育基本法15条1項で、「宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は教育上尊重されなければならない」と定めてある。この規定は、教育上宗教活動を尊重することで、特定の宗教に対する迫害を禁止した規定である。

また、宗教教育は教育基本法第1条にいう「教育の目的」の中核たる「人格の完成」にとって不可欠のものであるという考え方もある。[9]なぜなら、人間が宇宙や自然、社会等との問題の中で自己を位置づけ、自分は何かという問題について、意識的・無意識的にアイデンティティを確立することは、人間の人格にとって極めて重要であり、[10]宗教的活動は人間の「精神」の高位に位置づくものと考えられるからだ。

それゆえ、九州大学も教育基本法に則り、宗教に対する中立性を守り、その地位を尊重することで、個人の尊厳を重んじ、豊かな人間性を備えた学生を育成するべきだ。

 

(b)教育憲章

九州大学は世界中の人々からも支持される高等教育をいっそう推進するため、教育憲章を定めている(教育憲章1条)。その第5条に国際性の原則(b)において「種族的、国民的及び宗教的集団の間の理解、寛容及び友好を促進すること」を目指している。九州大学はアジアや全世界で活躍する人材を輩出し、日本及び世界の発展に貢献することを目的としており(同2条)、宗教的集団について理解する姿勢や寛容な態度を取ることが求められるだろう。

 

 

6.憲法判断

これらの「思想・良心の自由」、「信教の自由」、二重の基準論や国際人権規約により宗教活動の自由を制約するときは厳格な審査を行うべきである。そして、九州大学の方針である九州大学規則と九州大学憲章において、九州大学は宗教に対して寛容な姿勢をとっていると考える。これらのことから、九州大学におけるカルト対策が「思想・良心の自由」「信教の自由」を侵害しているかどうかは、裁判所が行う違憲審査の中で、最も厳格な審査基準である「必要不可欠な目的を達成するための最小限度の手段」であるのかどうかで判断したいと思う。

 

(a)目的

カルト対策の目的は必要不可欠な目的といえるだろうか。大学は当然、学生の生命、安全、秩序を守る必要はある。さらに、大学は学生の学習の自由を保障するため、修学や生活のサポートをすることは必要だろう。カルト集団に入ることでその学生の生命、安全、秩序が乱されて、大学で学ぶ自由が侵害され、日常生活が困難になるならば、確かに大学にとって必要不可欠な目的だろう。

しかし、大学が宗教に対して寛容な姿勢をとることを考えると、大学側がカルト集団の勧誘阻止することは必要不可欠な目的とはいえない。大学側のいう「カルト団体と思われる集団」に所属する学生による布教活動の自由も保障されなければならない。また、勧誘される学生にしても、その団体に入るか入らないかは、学生の自由に委ねられている。大学側が特に理由もなくその自由を奪うことは「思想・良心の自由」「信教の自由」の侵害にあたるだろう。

特に、学生生活オリンテーションで、佐藤弁護士が「宗教は恐ろしい」と述べていたことからすると、大学は学生を守ることを目的としたのではなく、学生を宗教から遠ざけることを目的としたのではないか。そのような目的は必要不可欠な目的ではないだろう。

 

 

(b)手段

手段はその目的を達成するための最小限度の手段であろうか。公の場での一斉注意は、新入生がカルトの勧誘に対して漠然とした危機感を抱く。そして、ビラが掲示板以外にも大学の壁のいたるところに貼ってあることで、その場所を通るたびにカルトに対する危険性を思い起こす学生もいるだろう。そのような、大学側の積極的な行動は必要以上にカルトに対する恐怖心を植えつけてしまうのではないだろうか。また、ポスターの内容に「大切な大学生活をフイにしない」とあるが、学生生活を有意義なものに感じるかどうかは本人の主観によるため、大学側の憶測で学生に勝手なイメージを与えることはよくない。

さらに、このような注意喚起は一般の学生だけでなく、「カルト団体と思われる集団」内部の学生に対して萎縮効果を与えるだろう。大学側のいう「カルト団体と思われる集団」に所属している学生もいるはずだ。その内部の学生たちが大学と恐怖心を抱いた学生から危険な団体と思われることにより、活動をしづらくなるだろう。さらに、内部の学生が傷つき、学生の人格成長を阻害してしまうこともあるかもしれない。実際に、福岡大学の学生が同じようなポスターを見て、「何かに威嚇されているようで、見るたびに嫌な気分になりました」と感想を話している。[11]九州大学においても入学式当日の橋口教授による注意喚起に対して「私は学校などの公の場で統一教会を非難されたのは初めてだったので、とてもショックを受けました。自分が後ろ指を指されているようで、統一教会の信仰を持っていることが何かとてもいけないことであるかのような気がしました。」という被害の声があがっている。学生生活への希望を抱きながら入学したその日に、自身の信仰を否定されるとは思ってもみないできごとだっただろう。そのような学生を傷つける手段は最小限度の手段といえるだろうか。

九州大学がいたるところにポスターを貼り、大学のオリエンテーションで大々的にカルト問題を中心的に扱う手段はやりすぎではないかという疑問を抱く。特に九州大学で問題となるのは、学生生活オリエンテーションで、佐藤力弁護士が「宗教が恐ろしい」と述べ、宗教全般に対する恐怖心を新入生全般に与えることと特定の宗教を名指し批判した橋口教授の発言だろう。これらは、明らかに憲法20条1項で保障する信教の自由に違反する。

一般の学生と「カルト団体と思われる集団」内部の学生を守るためにも、大学側はまず、内部のメンバーに会い事実確認をして、その後問題があれば、直接注意をするべきだろう。そのような事実確認なしに、大学がポスターやオリエンテーションを行うことは、学生に「カルト団体と思われる集団」対して過度な恐怖心を与え、勧誘する学生に萎縮効果を与えるという点で最小限度の手段ではないだろう。

 

7.結論

以上から、九州大学の行っているカルト対策は、「必要最小限の目的を達成するための最低限度の手段」といえず、憲法19条「思想・良心の自由」と憲法20条1項「信教の自由」に違反した行為である。

私は、大学生の期間は人格の形成や価値観の構築が行われていく、学生にとって重要な時期であると考える。そして、授業に出席し卒業単位を満たすだけではなく、これまでに経験したことのない多様な価値観や人間関係の中で、自身を客観的に評価できる広い視野を持ち文化や習慣の異なる他者を受け入れる大きな器を作っていくときでもあると考える。学生の人格成長にとってそれほど重要なこの時期に、学生の成長を支援する立場であるはずの大学当局が、ある価値観・集団を無碍に否定し、そのことにより学生の心を傷つけ学習意欲・向上心を削いでしまうような取り組みをしてよいはずがない。九州大学は大学規則、教育憲章を守り、人格的に模範となる学生を育成するためにも、対策内容の改善、またはカルト団体の勧誘に対する注意喚起自体を中止するべきである。

 

 

 


[1] 芦部信喜『憲法』142―144項(2007)
[2] 神戸簡裁昭和50年2月20日判決 牧師Xが警察に嫌疑をかけられていた高校生A,Bを牧会活動のため警察からかくまった事件。Xの教会に警察が訪れてきたが、Xは知らないと答えた。その後、Xが牧会活動を行いA、Bを説得し、両少年は警察に任意に出頭した。簡裁はこのXの行動は正当奈業務行為として罪とならないと判断した。
[3] 最高裁昭和38年5月15日大法廷判決 真言宗の僧侶Xが被害者Aの平癒のために護摩壇前で線香を炊く加持祈祷を行った事件。XがAの背中を押さえつけ、手で殴るなどしながら約3時間にわたり線香約800束を燃やしつくし、その結果Aは急性心臓マヒにより死亡した。最高裁はXの行為を信教の自由の保障を逸脱したものとして刑法205条に該当すると判断した。
[4] 高橋和之・長谷部恭男・石川健治編『憲法判例百選Ⅰ』85項(2007)
[5] 芦部信喜『憲法』142項
[6] 同210項
[7] 松井茂記『二重の基準論』242―244項(1994)
[8] 日本弁護士連合会『国際人権規約と日本の司法・市民の権利』203項(1997)
[9] 杉原誠四郎『日本の神道・仏教と政教分離―そして宗教教育』(2001)
[10] 洗健「スエーデンの学校における宗教教育―世界の宗教事情調査から」(1976)
[11]『財界にっぽん』(2011.4)室生忠「横行するアカデミック・ハラスメントの迫害」上記のほかの参考文献
樋口陽一『憲法』(2007)
浦田賢治・大須賀明編『新・コンメンタール日本国憲法第一巻』(1993)
櫻井義秀『「カルト」を問い直す信教の自由というリスク』(2006)
市川昭午編『教育基本法』(2006)


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