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【佳作】「カルト」の信教の自由を考える


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佳作

「カルト」の信教の自由を考える

~大学「カルト」対策に伴う人権侵害性とカルトの法的保護範囲を検討する~

中本 和誉さん(愛媛大学)

全文ダウンロードはこちらから(PDFファイル)→「カルト」の信教の自由を考える


Ⅰ、序文

 

1、 大学の「カルト」対策への問題提起

2006年以降、「摂理」という韓国のキリスト系新宗教の教主による性犯罪がクローズアップされ、その団体が大学キャンパス内で活動しているという情報から、全国の大学で「カルト」への警戒が高まった。それは現在の異常な「カルト」対策へと発展した。以下、月刊経済誌「財界にっぽん」より、大学の「カルト」対策の実態を引用する。「最も被害の大きい統一教会系の学生サークル組織「CARP(collegiate for the Research of Principles=全国大学連合原理研究会=」に対する抑制を行っている国・公立・私立大学は、程度の差こそあれ、確認されているだけで全国約60大学(2010年10月現在)にのぼる。CARP抑圧の態様は構造的なもので、大別すると次のようになる。

①構内の立て看板、ビラ・ポスター、冊子、HP、メール、構内放送など、学生全体に対する日常的な注意喚起とサークルへの威嚇。

②入学時のオリエンテーション、カルト対策講座、一般授業の中での教授・教職員による注意と警告。

③CARPメンバーに対する恒常的な監視と本人への直接尋問、脱会や棄教の強要、大学院入試の拒否などの各種のアカデミックハラスメントやパワーハラスメント。

④保護者(両親)と外部の「救出」牧師との連携促進、棄教させるための牧師との面会強要、拉致監禁と強制棄教の幇助1

、などである。[財界にっぽん2011年4月号 特別レポート、日本の人権状況<シリーズ⑬>]」

 

筆者自身も某大学に入学した際にオリエンテーションを受けたが、統一教会の批判ビラをあらかじめ配布し、その上でカルトの危険性を強調しており、対策講義では、マインド・コントロールの恐怖をうったえる映像と教授の熱烈なカルトへの批判講義を受けた。当時、純粋に統一教会の教義を信仰し、新しい大学生活への希望に燃えていた筆者は大学に対する激しい嫌悪感と絶望感を覚えたことを記憶している。しかし、大学が「学生支援」という名の下に権威を濫用し人権侵害をおこなうことには憤怒の思いを隠せないが、「破壊的カルト」による社会問題(オウム真理教のサリン事件等)が勃発した社会的背景を考えるときに、大学の「カルト」対策もまたもっともであると考える。

このような社会的背景をふまえ、大学の「カルト」対策の人権侵害性を論ずると同時に、社会的な批判をうけている「カルト」の信教の自由をはじめとした法的保護の範囲について検討する。このことにより、大学の「カルト」対策の行き過ぎを是正し、「カルト」とされる宗教団体の必要最低限の人権を保障することを本論文の目的とする。

 

2、 現在の学術的意義

「カルト」の法的保護範囲を検討するにあたって、この分野を論ずる学術的意義についても検討せねばならない。

学術的意義を見出すにあたって、いくつかの著書を挙げると、宗教法学会の理事である平野武氏は、龍谷大学法学部教授を務められながら、「宗教と法と裁判」や「信教の自由と宗教的人格権」などの著書を残す。そして、それらの著書では「宗教的人格権」という信教の自由のみでは十分には保護されていなかった「宗教的プライバシー権」すなわち、「宗教に関して強制や禁止のレベルではなく、『干渉』のレベルでも保護」する権利を改めて認めることの現代的意義を述べている。

また、2010年に出版された『表現・教育・宗教と人権』(弘文堂)の著者、内野正幸氏は本著書において宗教的人格権を表現の自由との対抗利益として位置付け、その関係性を論じつつ、宗教的人格権の成否を中立的に検討している。他にも、大石眞氏の「憲法と宗教制度」(有斐閣、1997年5月、第二版)など信教の自由と新興宗教や新宗教運動について論じたものがあるが、いずれの著書にせよ、いわゆる「カルト」(これらの著書では「新興宗教」あるいは「新宗教」と表現されている)の具体的な信教の自由、宗教的人格権の限界については述べられず、問題提起や様々な権利との調整の必要性などを明確にするに留められている。ゆえに、現在の「カルト」の問題については、個別具体的な判断に結論を委ねられ、現在の具体的な適用あるいは判例への影響を期待することは困難であった。したがって、本論文では信教の自由あるいは宗教的人格権の限界について大学の「カルト」対策を事例に挙げ具体的に検討し、一応の境界線を定義することを学術的意義として位置付けることを目標とした。

Ⅱ、カルトをめぐる事件と対応

 

1、 「カルト」の定義

そもそも「カルト」とは、国際的には多くの意味をもち必ずしも明確ではない。よって、本論文の趣旨にのっとり日本国内の時代的背景等を考えた上で筆者なりに名づける。すなわち、「カルト」とは、昭和30年代の高度経済成長に伴って台頭してきた、創価学会をはじめとする、立正佼成会や霊友会などの日連系・法華系の教団を中心とした『新宗教』。そして、昭和48年の「オイル・ショック」以降の不安な時代背景の中で台頭してきた終末論や超能力、あるいはオカルトといったことを売り物にする新しいタイプの『新新宗教』、世界真光文明教団、崇教真光、神霊教、世界基督教統一神霊協会、エホバの証人など2を言う。また、その中でも罪を犯し社会的・法律的にも危険性の高いと判断しうるものを「破壊的カルト」と別途に名づけ、その具体的判断基準については後述する。

 

2、 「カルト」事件史を考察する意義

「カルト」について考える前に、社会的に「カルト」がどのような経緯によって社会問題化したのかについて知ることは、大学の「カルト」対策について社会的または法律的背景を考察する上で意味があるため、以下関連事件を挙げる。

 

3、 「カルト」をめぐる事件

世界的な衝撃を与えたのは「人民寺院」事件3だが、ここでは日本国内の主な「新興宗教」、「新宗教」の事件をとり上げる。

1987. 「統一教会」の「霊感商法」が社会問題化
1989.2 「オウム真理教」「田口修二さん殺人事件」
11.4 オウム真理教「坂本弁護士一家誘拐殺人事件」死者3人
1993.3.27 オウム真理教「宮崎の旅館経営者拉致事件」
4.21 山崎浩子、「統一教会」脱会会見(「マインド・コントロール」)
5.27 「霊感商法/統一教会」に民事賠償判決(福岡地方裁判所)
1994.1.30 オウム真理教「落田耕太郎さん殺害事件」
5.9 オウム真理教「滝本太郎弁護士サリン襲撃事件」
1994.9.6 神道系カルト「パワフルコスモメイト」脱税容疑
1995.3.20 オウム真理教「地下鉄サリン事件」、死者11人、負傷者数千人
5.16 オウム真理教 麻原彰晃(本名:松本智津夫)、殺人容疑逮捕
7.5 福島の祈祷師宅で6人の遺体発見
10.30 「オウム真理教」に宗教法人法による解散命令
10.31 「霊視商法/明覚寺」詐欺容疑で逮捕
2000.1.20 「加江田塾」「ミイラ化遺体発見事件」、幼児と乳児の死者2人
8.16 大阪・泉南市で祈祷系の家族宗教一家5人が餓死
2002.10.27 福岡市早良区で女性のミイラ化した遺体発見。自称「教祖」の
上野一子らが死体遺棄と死体毀損容疑で逮捕
2003.4~5 「パナウェーブ研究所」(千乃裕子代表)の車両群が岐阜、山梨、
福井県を移動、「白装束集団」としてマスコミに大々的
8.7 「パナウェープ研究所」の福井市の施設で大学助教授死亡
9.12 「パナウェープ研究所」の福井市の施設で再び男性が変死
12.7 「パナウェープ研究所」のメンバー5人が「傷害」容疑で逮捕
(参考:日本と海外の「カルト」宗教事件年表(志村真4 2004年2月作成)
(出典:http://www2.ocn.ne.jp/~makotomo/culthistory.pdf)

 

4、 「破壊的カルト」の定義

これらは、国内の主な「カルト」に関係する事件であるが、海外では他にも異常な事件が起こっている。

こういった一連の事件を受けて、日本では、宗教法人法の一部改正や東京都生活文化局が1996年3月「霊感・霊視商法等に関する実態調査報告書」をまとめ、また日本弁護士連合会では1999年3月26日、日弁連総第70号「反社会的な宗教活動にかかわる消費者被害等の救済の指針」という意見書を出している。(日弁連ではそれ以前にも頻繁に意見書や報告書を出している。)この報告書では、「宗教的活動にかかわる人権侵害についての判断基準」を独自に設け、「宗教家や宗教的活動を行っている人および法曹(弁護士、検事、裁判官)、そして市民が、宗教や精神世界に関する諸活動に関連するトラブルや人権侵害事件に直面した時に、対応を誤らないために、判断の基準を提案したものである。」としている。この基準は、後の日弁連の意見書5で対カルト安全教育における「カルト」、「破壊的カルト」の定義の参考として用いられていることから、「破壊的カルト」の定義の参考に確認する。以下、一部引用。

「反社会的な宗教活動にかかわる消費者被害等救済のための指針」

1、 献金等勧誘活動について

(1)、献金等の勧誘にあたって、次の行為によって本人の自由意思を侵害していないか。

① 先祖の因縁やたたり、あるいは病気・健康の不安を極度にあおって精神的混乱をも
たらす。
② 本人の意思に反して長時間にわたって勧誘する。
③ 多人数により又は閉鎖された場所で強く勧誘する。
④ 相当の考慮期間を認めず、即断即決を求める。

(2)、説得・勧誘の結果献金等した場合、献金後間もない期間(たとえば1カ月)はその返金の要請に誠意をもって応じているか。

(3)、一生を左右するような献金などした者からの返金要請にできる限り誠実に応じているか。

(4)、一定額以上の献金者に対しては、その宗教団体等の財産報告をして、使途について報告しているか。

(5)、お布施、献金、祈祷料等の如何を問わず、支払額が一定額以上の場合には受取を証する書面を交付しているか。

2、 信者の勧誘について

(1)、勧誘にあたって、宗教団体等の名称、基本的な教義、信者としての基本的任務(特に献金等や実践活動等)を明らかにしているか。

(2)、本人の自由意思を侵害する態様で不安感を極度にあおって、信者になるよう長時間勧めたり、宗教的活動を強いて行わせることがないか。
(3,4省略)

実際に、精力的に「カルト」対策を行う愛媛大学の公式キャンパスガイドには、「カルト」による勧誘注意を呼び掛ける欄に「反社会的行為、基本的人権の侵害、目的を偽った勧誘、募金活動、販売活動を行う破壊的カルトと呼ばれる宗教団体が存在します」と紹介していることから、大学のいう「破壊的カルト」とは、上記の報告書の基準に沿ったものであると推測できる。

本論文においては、「大学」の「カルト」対策を論ずることから、次の3点を「破壊的カルト」の具体的な判断基準とし、それに該当する諸団体の「信教の自由」と「宗教的人格権」の限界を論ずる。(1)反社会的行為(2)基本的人権の侵害(3)目的を偽った勧誘、募金、販売活動をおこなう「カルト」(Ⅱ1参照)を「破壊的カルト」ということにする。

Ⅲ、信教の自由と宗教的人格権

 

1、 信教の自由とは

まず、「カルト」の信教の自由等を論ずる前に基本的な概念を述べておくと、信教の自由とは憲法20条を根拠に保障される権利である。すなわち、「信教の自由とは、宗教を信仰し、または信仰しないこと、信仰する宗教を選択し、または変更することについて、個人が任意に決定する自由である。(芦部『憲法(第4版)』146頁参照)」信教の自由にも、3つの内容があり、①信仰の自由、②宗教的行為の自由、③宗教的結社の自由である。①については、内心の自由(19条)の一部であり、内心にとどまる限り絶対的に保障されるものである。②は、宗教上の祝典、儀式、行事その他布教等を任意に行う自由であり、すなわち表現の自由(21条)の一部であるから、一定の制約を受けることになる。③は、集会・結社の自由(21条)の一部であり、②と③は、宗教実践の自由ともいわれる。ここで扱われる「宗教」の定義として、「超自然的・超人間的なものの存在を確信し、畏敬崇拝する心情と行為」であるとする定義が判例・通説である。(名古屋高判昭46.5.14 行裁例集22巻5号680頁)「カルト」が宗教か否かは説が分かれるが、ここでは宗教として扱う。

 

2、 信教の自由の限界

ここにおいて問題となるのは、宗教上の行為の自由についてである。これは、国際人権規約18条の定めにもあるように、「公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要な」制約に服する。しかし、「安全・秩
序・道徳という一般原則から安易に規制が許されるわけではない。それは、必要不可欠な目的を達成するための最小限度の手段でなければならない。」(芦部『憲法(第4版)』148頁参照)これは「カルト」に対しても同様である。

 

3、 宗教的人格権とは

宗教的人格権が初めて認められたのは、自衛官合祀訴訟の山口地裁判決であり、裁判所は「一般に人が自己もしくは親しい者の死について他人から干渉を受けない静謐の中で宗教の上の感情と思考を巡らせ、行為をなすことの利益を宗教上の人格権の一内容としてとらえることができると解される。」とした。(山口地判昭54.3.22、判時921,44)しかし、最高裁では直ちに法的利益として認められないとして宗教的人格権を否認した。これに対しては、反対意見があり、宗教的人格権が、信仰を理由に不利益を課したり、特定の宗教を強制したりすることによって侵される信教の自由と比べるとなお法的利益としての保護の程度が低いことは認めながらも、「そうだからといって、宗教的なこころの静謐が不法行為における法的利益に当たることを否定する根拠となりえない」として、不法行為の通説として存在している。

信教の自由及び宗教的人格権はあくまで権利であるため、他の権利との衝突は避けられない。では、実際の裁判ではどのような基準で調整あるいは制限されてきたのか。さらに本論文の趣旨ゆえ「破壊的カルト」に焦点を絞り、「破壊的カルト」の信教の自由及び宗教的人格権の限界を検討する。

ここでは「破壊的カルト」(Ⅱ4参照)を、地下鉄サリン事件をおこした「オウム真理教」、霊感商法により使用者責任・不法行為を問われた世界基督教統一神霊協会(統一教会)そして輸血拒否事件をおこした「エホバの証人」の3団体の関係判例を挙げる。

 

4、 判例の検討

(ⅰ)宗教活動であることを秘して行われる献金勧誘行為

裁判所では、宗教活動であることを秘して行われる献金勧誘行為について、信教の自由の保障外であるという判断を下した例がある。

本件裁判所は、布教活動や献金勧誘する行為は信教の自由の一部として認められている事実を認めたうえで、「しかし、本件のように宗教団体であることを殊更に秘して布教活動等を行う場合においては、宗教的行為の一部であることが何ら外部には表現されておらず、宗教的信仰との結びつきも認められない単なる外部的行為とみられるから、信教の自由の保障の範囲外であり、一般取引社会において要求されるのと同程度の公正さが献金勧誘行為においても要求される」とした。(奈良地判1997.4.16判時1648号108頁)この判決は世界基督教統一神霊協会の不法行為責任を認めた事案である。

この事案は、信教の自由に基づく、布教活動や献金活動は、それが宗教行為であることを告げずにおこなわれた場合、不法行為として認められるというものである。つまり、宗教活動であることを表明せず行う行為については、ただ単に、信教の自由の保障の利益を享受せず、専ら社会的行為に必要とされる基準を満たすことを要求されるということである。宗教的人格権が否定されているわけではない。

(ⅱ)教団名、教義創始者の名前を明かさずに行われる勧誘、教化行為

この事案も世界基督教統一神霊協会だが、本件裁判所は「宗教を広めるために勧誘、教化する行為、勧誘、教化された信者を各種の活動に従事させたり、献金させたりする行為は、それが社会的に正当な目的に基づいており、方法、結果が社会通念に照らして相当である限り、宗教法人の正当な宗教活動の範囲内にあるものと認めるのが相当である。」とし、本件においては「連絡協議会の系列化におけるセミナーなどにおける勧誘、教化行為は教団名、教義創始者の名前を明かさない点において、やや道義上の問題を残すとしても、目的、勧誘、教化の方法などを総合考慮するとき、いまだ社会的相当性を逸脱したということはできない。」としている。(名古屋地裁1998.3.26判時1679号62頁)しかし、2000年9月14日の広島高裁岡山支部(判時1755号93頁)では、元信者(原告)側が初の勝訴となり、札幌地裁(2001.6.29、判タ1121号202頁)、東京地裁(2002.8.21)と勝訴判決が続いた。「広島高裁岡山支部事件の原告は献身前の原告であり、地裁判決の原告は活動期間も3年以上の信者であるのに対し、本件訴訟は献身期間が6年から9年にわたる長期の献身者であった。このような長年献身者の勧誘・強化の違法性の主張に対して」の裁判所の判断が注目された。東京地裁判決では「教義からの離脱自体が罪であるという教義を内包している場合には、その教義に深入りすればする程、教義からの離脱が心理的に困難になる」。「その教義の方法には、相手方の信教の自由に対する慎重な配慮が求められる」として、原告に対し勧誘・教化行為による損害に伴う慰謝料を認めた6

以上のことから、本件統一教会の勧誘・教化活動の違法判決が先例的価値を持ち始めたことは言うまでもない。これらの判例を比較検討するにあたって、まず勧誘・教化行為については「目的・方法・結果から見て社会的に相当な範囲を逸脱しているような場合には、民法が規定する不法行為との関連において、違法の評価を受けるものといわなければならない。ただし、これらを検討するに当たり、裁判所は、憲法20条1項に従い、当該宗教の教義の当否等に立ち入って判断しない」(名古屋地裁判決文より抜粋)というのが現在でも判例・通説的位置をしめている。つまるところ「問題になるのは外的な行為であり、信仰の自由といった内的な事項は他人を侵害することはありえない」ため、訴訟では「信仰や教義に立ち入ることはできないので、行為(お布施や供養料の勧誘行為)の目的、性質、方法などが客観的に違法であると判断できるか否かを問題にすべき7」であるとされている。
ここで、上記判決の違いについては、その「目的、性質、方法」の検証方法の違いが原因であると考えられる。以下詳細を論ずる。

先の名古屋地裁の事実関係では、原告側の自由意思について「宗教的な言説以上に物理的、身体的な強制力が介在したこと」や「行き過ぎた制裁の存在」を窺わせる証拠を検証した上で、束縛されてはいなかったとして「社会的相当性を逸脱」し、「自己決定権が侵害」される行為とは認めなかった。一方、後の東京地裁では、本件宗教団体の教義について触れ、自己が堕落人間であることをくり返し教えられ、救いを求める心情にかりたてられているような「状態を利用し、救いのためには堕落人間である自分が自己の判断で行動することは許されず、アベル[先輩信仰者をさす]の指示に絶対服従しなければならないと指導し」「勧誘される者の信教の自由の前となる自由意思に基づく判断の形成を阻害する」として、「原告らに対する勧誘・教化行為は、不当な目的に基づく社会的相当性を逸脱した方法で、結果として原告らの自由意思を阻害しているものといわざるを得ず、原告らの信教の自由を侵害する違法な行為」と認めた。一見、勧誘・教化方法の侵害性を検証しているようだが、名古屋地裁と違い、外的行為以上に原告の心理状態に注目し、客観的な「目的・性質・方法」ではなく、宗教の教義内容を詳細に検証し、その社会的相当性の逸脱性を論じている。むろん、相手方の心理に対して「悩みや不幸といった「弱み」につけこんで、不安感を煽り立て、理性的な判断を不可能にする状態で勧誘すれば、社会通念上許容された限度を超え、違法性を有するものと判断される8」べきである。

しかし、「カルト」の犯罪が増加していた社会的背景を無視するわけではないが、先述した判決をはじめとした現代の判例傾向として、明らかに客観性に欠け、宗教行為の社会的相当性の逸脱性が拡大解釈されるようになったといえる。ゆえに、「カルト」に対する信教の自由の侵害性が警戒されるべきである。

(ⅲ)「オウム真理教」解散申立事件

信教の自由の一部である宗教結社の自由との関連で、サリン生成による殺人予備行為を解散命令自由とする宗教法人オウム真理教解散申立事件(最高裁決1996.1.30判時1555号3頁)について検討する。

解散命令が一連の刑事事件とは関係のない一般信者の信教の自由を侵害するというオウム真理教側の主張に対して、最高裁は「解散命令によって宗教法人が解散しても、信者は、法人格を有しない宗教団体を存続させ、あるいは、これを新たに結成することが妨げられるわけでもない。すなわち、解散命令は、信者の宗教上の行為を禁止したり制限したりする法的効果を一切伴わない」と判示した。ここでは宗教法人オウム真理教の「法令違反、公共の福祉の著しい侵害、宗教団体の目的の著しい逸脱が『明らか』であるので解散命令は『必要かつ適切』である9」としながらも、オウム真理教信者の信教の自由は否定していないのである。

このことから、たとえ社会的に著しい人権侵害を行ったとしても、個人における信教の自由(ここでは宗教的人格権的要素が強いが)は何ものからも侵害されないことが分かる。

(ⅳ)「エホバの証人」輸血拒否事件

本件は「宗教上の理由から輸血を拒否したのに、手術の際に無断で輸血されて精神的な苦痛を受けた」として、東大医科学研究所付属病院側および国に総額1200万円の損害賠償を求めた事件である。(最高裁2000.2.29、判時1710号97頁)最高裁は、控訴審判決を支持し患者側の請求を一部認容し、医師および国に約55万円の賠償金を命じた。

本判決文によると「患者が、輸血を受けることは自己の宗教上の信念に反するとして、輸血を伴う医療行為を拒否することの明確な意思を有している場合、このような意思決定をする権利は、人格権の一内容として尊重されなければならない」とした。病院側の損害賠償責任を認めた根拠としては、自己決定権、医師の説明と患者の同意獲得の義務違反そして患者の信教上の良心を挙げ、決定的根拠としては自己決定権であったとみられている10

一方、第一審判決(東京地判1997.3.12判タ964号82頁)では、輸血以外に救命の手段がない事態になっても輸血しない旨の合意(「絶対的無輸血の特約」)は公序良俗に反して無効であり、患者救命のためにした本件輸血は社会的に正当な行為で、違法性がないとした。

社会一般的良心からすると東京地裁の判断は妥当であるともいえるが、自己決定権と信教上の良心の侵害性の大きさを考え、最高裁は患者の請求を認めた。しかし、「純粋に精神的な」侵害であるとして、慰謝料が極度に低く見積もられたことからすると、法的評価は必ずしも高くなく、このような精神的権利・自由・利益に対する法的位置づけの低さを土屋英雄氏は「日本の司法界の通弊」であると称している10

最高裁は、患者の輸血拒否は宗教的教義に基づくことを認めているが、これは医師の説明と患者の同意の必要を説く前提として認めていることからすると、宗教上の人格権が認められたか否かは不明である。しかし、宗教上の人格権を社会的な義務に裏付けるものとしては認められると解することができる。

 

5、 考察

これまでの判例検討からいえることは、いわゆる「破壊的カルト」であっても信教の自由、あるいは宗教的人格権は何ものにも侵害されないということである。オウム真理教やエホバの証人の一連の事件でさえ、その教義内容が公序良俗に反するような内容であっても、その信仰の自由のみならず宗教的結社の自由も侵害することは許されない。当然ながら、その宗教行為が相手の基本的人権を侵害するようなことがあれば公的司法機関によって裁かれてしかるべきである。しかし、一方で現代の判例は、精神的なものへの法的評価の低さが課題とされ、同時に宗教団体の元信者等をはじめとする個人への信教の自由の侵害を判断するにおいて、当初の客観的判定基準よりも一方的主観的な被害者心理に傾斜しつつある。

したがって、「破壊的カルト」の個人に対する信教の自由には寛容であるが、宗教団体への宗教的人格権の侵害が認容されている危険性があり、積極的な保護には至っていないのが実情である。

Ⅳ、大学「カルト」対策の人権侵害

 

これまでのことをふまえ、具体的な大学の「カルト」対策について検証する。

国立・大阪大学では「生活環境論」という必修の「カルト対策」講義を行い、提出レポートからCARPメンバーを割り出して尋問し、千葉大学では「カルト対策」講義で「『カルト』を『非社会的集団で、入ると不幸になる組織』と定義して40分ほど反『カルト』講義をし、「統一教会の名前を挙げて『霊感商法』や裁判問題を批判して、あわせて『スポーツや勉強会をするサークルと偽って合宿に参加させて、不当なお金をとろうとする』とCARPを批判している。さらに、筆者の友人は、大学から両親に連絡が行き、大学が紹介した牧師によるいわゆる「脱会」行為により成人男性でありながら、平穏な信仰生活を妨げられていた。また、現在の広島大学で、某宗教団体は「カルト」に対する徹底的な大学の批判キャンペーンによって「カルト」と断定されずとも、宗教への不信感を入学時から一方的に煽られることにより、信教の自由の一部である勧誘・教化行為が制限されていると感じている。

大学のこれらの行為を検証するに当たり、内野正幸氏の著書から引用する。「世間では、クリスチャンのような“普通の”宗教を信じている者であればいいが、得体の知れない“変な”宗教に入信されるのは困りものである、といわれがちである。憲法学的見地からいえば、“普通の“宗教にも“変な”宗教にも無差別に自由を保障すべきであるが、それとは別に、学校教育の見地からは、子どもの健全な発達を著しく妨げるような種類の問題宗教かどうか、という選別を行うことは尐しはできよう。そして学校や教師が、生徒の悩みの相談などの形で、生徒が問題宗教に入信するのをできるだけ防ぐ方向で努力することは、必ずしも教育の宗教的中立性の原則に反するとはいえないだろう」(「表現・教育・宗教と人権」(弘文堂、2010.4.15、224-225頁)

では、内野氏のいうような最低限の干渉行為、もしくは芦部氏の「必要不可欠な目的を達成するための最小限度の手段」(Ⅲ1参照)は、大学「カルト」対策においても守られているのだろうか。「破壊的カルト」の信教の自由は論証済みであり、「破壊的カルト」とよばれるからといって信教の自由を侵害することは許されない。具体的には、大学の学生支援課から「カルト」の実態について、中立的な情報を提供することには異論はないが、批判的情報のみを提供すること、ましてや学生個人に対して差別的対応をとる行為は、「破壊的カルト」であっても、信教の自由が存在する限り人権侵害行為として名誉毀損のみならず、宗教的人格権の侵害も認められるべきである。しかも、大学という思想・学問の自由が保障されるべき場でありながら、反対牧師なるものと連携し、「カルト」信仰者を「脱会」に直接・間接的に導く行為は、社会倫理的観点からも非難されるべきである。

したがって、大学「カルト」対策で許される行為があるとすれば、「カルト」団体に関する中立的な情報の提供と現在の司法界の課題でもある「精神的なもの」すなわち宗教に対する理解を示した上での、過去の「破壊的カルト」による人権侵害や危険性の報告。また、「カルト」信仰者に対して、サークルあるいは団体があるとすれば活動報告書の提出を要求する行為である。

Ⅴ、結論

社会一般的に「カルト」といわれる宗教団体の法的保護範囲については、信教の自由が制限される明確な基準のみならず判例自体も存在しないといえる。しかも、「破壊的カルト」と呼ばれる宗教団体にさえ個人においては「宗教的人格権」が認められうる。

こういった事実をふまえるとき、現在の大学「カルト」対策は、個人の信条に関与しないといいながらも、行き過ぎの事実が存在する。宗教に対して排他的な日本国であっても、憲法において明確に「信教の自由」は保障されている。しかも、世界的にその保障においては先進性を持つともいわれる。このように人権保障においては国際的にも評価すべき価値をもつ憲法を誇る国として、その実践力が問われているし、その主力を担う大学は人権保障の最前線である。まだ、検討すべき内容は多くあるが、次回、論文の課題としつつも、この論文が今後の大学の「カルト」対策の改良と「カルト」と呼ばれる宗教団体の理解が進むことを祈念してやまない。

 

参考文献

「信教の自由と宗教的人格権」(法蔵館)1990.4.10 平野武
「思想の自由と信教の自由~憲法解釈および判例法理~」
(尚学社)2003,9 土屋英雄
「フランス法と反セクト法」(一橋大学)2002.11 中島宏
「憲法と宗教制度」 (有斐閣)1996,10 大石眞
「宗教と法と裁判」(晃洋書房)1996.8.20 平野武
「『カルト』を問い直す―信教の自由というリスク―」(中央新書)2006.1.10 櫻井義秀
「平成宗教20年史」(幻冬舎新書)2008.11.30 島田裕巳
「表現・教育・宗教と人権―憲法研究叢書―」(弘文堂)2010.4.15 内野正幸
「宗教トラブルはいま」(日本弁護士連合会、消費者問題対策委員会)
(教育史料出版会、2003,10,20)
1 この事実については(米本和広)『我らの不快な隣人~統一教から「救出」されたある女性信者の悲劇』(情報センター出版局、2008年6月)に譲る。
2 参考:(島田裕巳)『平成宗教20年史』(幻冬舎新書、2008年)18-21頁
3 1978年11月に南アメリカのガイアナ共和国で、カリフォルニアから入植した900名以上の信者が、教祖の指示に従って集団自決した。
に取り上げられる。
4 中部学院大学短期大学部 教授・短期大学部宗教主事
5 「教育基本法の在り方に関する中教審への諮問及び中教審での議論に対する意見書」(2002.9.21)
6 参考、引用「宗教トラブルはいま」(日本弁護士連合会、消費者問題対策委員会)(教育史料出版会、2003,10,20)50-51頁
7参考・引用「宗教と法と裁判」(平野武)(晃洋書房1996.8.20)70-71頁 ([ ]内は筆者)
8引用「宗教と法と裁判」(平野武)(晃洋書房1996.8.20)71頁
9 引用「思想の自由と信教の自由―憲法解釈および判例法理―」(土屋英雄)(尚学舎2003.9.25)132頁
10参考:同上(127-130頁)

 


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